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第5章 被害者、法律家の観点から見た児童相談所

法律からみた児相

第5章 被害者、法律家の観点から見た児童相談所

この本の最も本論であり、重要な内容を詰め込んだ三者対談の内容をここから記載していこう。

★児童相談所で起こっていること

内海 今回は、児童相談所の表も裏も知り尽くしているお二人にいろいろお話を聞いていきたいと思います。もう遠慮なく大胆にいろいろと真実を暴露していただければと願う次第です。まず自己紹介を簡単にお願いします。
松島 平成19年に静岡県静岡市児童相談所に我が子を拉致監禁されて、かれこれもう6年目に突入しました、松島と申します。我が国ではこの児童相談所に子どもを拉致されて、国賠裁判を実際に起こされた方は何人もいるようなんですけど、審議が長く続いてきてる事例というのはほぼ皆無だと思います。裁判をずっとやっていく中で、おかしなことが噴出していますので、そのあたりを語りたいと思います。
南出 弁護士の南出です。今、松島さんの国賠訴訟の代理人でもありますし、一連の措置請求なり家裁の事件、一連のことに関して松島さんの側に立って、ずっと活動をしています。
内海 まずこのテーマ、何が問題かということを理解されてない方が多いと思いますので、そのあたりからご意見をいただければと思います。児童相談所で今、何が起こっているのか、松島さんも児童相談所の被害者会というものを立ち上げられ、ご自身の件も含めて事情を熟知していらっしゃいます。
松島 まず、児童相談所とは「児童福祉法」という法律に定められたところで、児童と呼ばれている、生まれてから18歳になるまでの間のお子さんを保護しています。法律の上では、「親が子どもを養育できない」とか、「親が子に対して虐待を行なっている」とか、「事故等で扶養する親がいなくなってしまった」とか、そういったいろんなお子さんに対しての養育不完(★)があった場合に、保護という形をとれるとされています。
 しかし実はこれは、どんな理由かも考えず、職員が個人的な見解で勝手に子どもを保護できてしまう法律なんですね。ここには「令状主義」もまったく存在しません。つまり、一介の地方公務員が「保護したいなぁ」とか「これは保護しなくちゃ」と思えば、それだけで勝手に保護できてしまうという法律なのです。そこには検証も審査もありません。
 この法律を盾に全国の普通の健全な家庭から子どもを連れ去っているという実情があります。ちなみにウチの場合は「保護」されてから、もう約6年目に入ってますけど、その間、会わせてももらえません。
内海 6年の間、一度も、ですか?
松島 はい。その間、一回も会えませんし、手紙のやりとりも電話すらできません。
児童相談所からは、親に会わせるのはダメだと言われたんで、私たちも仕方なく、私たちの代理人であるこちらの南出弁護士に会っていただこうと思ったら、それも却下されてしまい、本当に今、生きてるか死んでるかさえ、よくわからない状況です。
 2011年3月11日の東日本大震災のときなんかでも、子どもがどうなっているか、安否の通報すら、私たちにはないんです。そういうことを平気で静岡市の児童相談所はやっているのです。

★300件の反響

内海 しかも松島さんのようなケースは特殊な事例ではないのですね。
松島 実はそういう私の被害をインターネットで公開したところ、全国から今までで約300件の反響が寄せられています。
「ウチも子どもを取られました。どうしたらいいでしょうか」というような相談が一杯、メールとか電話とかいろんなメディアを使って入ってくるんです。
 そして、その特徴としては、被害者側が思い当たる節がないっていう方が非常に多いということです。なかには、実際に体罰のようなことをしていて理由が存在する方もいますが、それにしても何年にもわたって子どもと家族を完全隔離しなければならないような事案というのはほとんどありません。それぞれのケースの事情を見聞きしていて私が思うのは、職員の腹いせ的な保護とか、法律をまったく無視したようなやり方での「拉致・監禁」という言葉がピッタリするようなケースがたくさんあります。
 虐待を定義している「児童虐待の防止等に関する法律」というのも、2条に定義があるんですが、ものすごく曖昧な法律なんです。見方によったら、親の行動すべてが虐待になってしまうというとんでもない法律なんですけど、児童相談所はこの法律を使って子どもをどんどんと拉致しています。
 ここには利権が発生していたりさまざまな問題が横たわっているわけですが、こうした児童相談所のやり方をお子さんを育てておられる親御さんが知らず、公的な機関なんだから、もし保護されても話し合いをすれば間違いをわかってもらえるだろうとか、甘く考えておられるんです。国の機関がそんなメチャクチャなことをするわけがないと思っているのです。
 しかし、はっきり言って、児童相談所に保護されたら最後、もう話し合いでどうこうなるような問題ではないし、虐待を否認でもした日には、ウチみたいに何年も会わせてもらえないような事案に発展してしまうのです。

★体罰と虐待の定義

南出 まず松島さんの個別の事件に触れる前に、この児童相談所問題の根本的なテーマについてお話ししたいと思います。
 それは「虐待」の解釈という問題です。まずは児童福祉法と児童虐待法、ここでは児福法・児虐法という略称で言いますけど、児福法も児虐法も「虐待」というものの定義をしています。ところがこの定義では体罰との境界が非常にあいまいなんです。どこからどこまでが体罰として容認されて、どこからが虐待に入ってくるかということが定かではない。
 民法では822条で親の懲戒権は認めているんです。また学校教育法の11条では教師の懲戒を認めながらも、但し書きとして「体罰をしてはならない」としています。つまり、「但し体罰をしてはならない」と書かれているということは、本来、懲戒権の中に体罰は当然含まれるというふうに解釈できます。教育の一環として懲戒は認めながらも体罰だけはしてはならないという但し書きが書いてある一方で、民法822条の親の懲戒権の中にはそうした但し書きがないため、親の懲戒権には当然体罰は含まれると解釈できるわけです。体罰除外規定がないわけで、今までずっとそれは容認されてきたのです。学校での体罰は許さないけれども、家庭での体罰は許してきた。
 そもそもそのイレギュラー自体も問題なんですよね。どうして教育のプロであるところの教師が体罰できなくて、生んで育てただけで、別に教育学、あるいは教育的な専門的な知識、技術、ノウハウを取得したことのない親には体罰が許されているのか。これは、「体罰はダメ」という科学的根拠のない一種の信仰のようなもんです。そうした信仰が振りまかれながら今日に至って、世間にも体罰否定のムードというのはものすごくあります。
 なにもやたらと体罰をしてもいいということではないんだけど、体罰の定義、それから児虐法でいうところの虐待の定義、これがまったくなされていないということは大きな問題です。「体罰」と「虐待」の区別がついていないのは、児童相談所だけではなく、裁判所もしかり、行政もしかりです。
 たとえば外科医がメスを持って手術をしたとします。それによって人が死んだとき、落ち度があれば、それは「業務上過失致死」です。「傷害致死」あるいは「殺人罪」としては立件されません。医療行為自体は正当行為ですから、正当な目的を遂げようとしてたまたま不注意で命を失ってしまったことの過失と捉えるためです。初めからその正当行為自体を全否定して、医者が「傷害致死」「殺人」で立件された場合、当然大きな反発が起こります。
 ところが教育の現場では、そうではありません。私のよく知っているケースでいえば、たとえば戸塚ヨットスクール事件というのがありました。ここは学校教育法に基づく学校法人ではないので、教育機関ではありません。親の体罰を含む懲戒権を委託されて情緒障害児を訓練するということになっています。
 その訓練中に体罰をくわえて生徒が死んだということになれば、戸塚ヨットスクールの場合、外科医の手術と同じように教育が正当な目的行為としてあって、正当な目的を遂げようとした過程でたまたま命を失った過失、つまり「業務上過失致死」に問うならいいのですが、検察はこれを「傷害致死・監禁致死」に問うたわけです。
 戸塚さんはそのことについて抵抗したんであって、彼は傷害致死とか監禁致死ではなく業務上過失致死で立件されたならば、甘んじて受けたと思います。彼が納得できなかったのは、その目的であるところの教育を全否定されたという点です。この事件は、教育の手段である体罰を全否定されたところに問題があった。
 つまり、あの頃から体罰イコール違法行為、暴行という解釈がされていたわけです。それが平成12年に児虐法ができた段階でまさに体罰イコール虐待だという図式が行政にも、学校にも、児童相談所にも定着してしまった。この現象がまず大問題なんです。
内海 体罰の定義もあいまいなままに、体罰をしたら即虐待だということになってしまったわけですね。

法律からみた児相

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