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洗脳という手法

児童相談所

★洗脳という手法

南出 松島さんの事件は物凄く長期化していますが、そもそも一時保護の理由になったのは子どものアザでした。松島さんは教育上、必要な場合は体罰を行なうという信条を持っていた。そして、ケツバットという方法で、なるべくダメージの少ないお尻をバットで叩くという手法を取っていた。しかしそれ以外にも体中にアザが見つかって、そもそもそんなアザができる体罰を振るっていないのに、アザが何箇所かあったというふうにされている。
 医者と学校と児童相談所の三者、さらに病院までつるんで、それでややこしい向精神薬を投与して、それで子どもが家に帰りたくないというようにしてしまうわけね。
内海 洗脳みたいに。
南出 まさに洗脳してしまう。現に松島さんの子どもだって、何度かにわたって家に帰りたいと言ったことが記録に残っている。子どもの言うとおりだと言うのなら、子どもが帰りたいと言うんだったら帰してやったらいいわけね。ところが「それは子どもの真意じゃない」、あるいは「これは違うんだ」というわけ。彼はお爺さんのお通夜も本葬も出席しなかったんですよ。児童相談所の判断で一切させなかった。
 元々、児童の保護というのは、家庭再統合のためにやるんじゃないですか。だから4年も5年も一時保護という形をとって家庭再統合の措置をしたはずなのに、なんら成果が上がってないことを証明しているじゃないですか。
 松島さんの事件に携わることによっていろんなことが見えてきたんですよ。だから警鐘を鳴らすべきだというように思ってるわけね。
内海 まさにやりたい放題なんですけど、今の話を聞いて思うのは、精神医学と非常に共通性が多いですよね。科学的根拠のなさとか、論拠そのもののなさとか、先程子どもをさらったら予算が出来高のように増えていくという実態もすべて医療界にもいえることです。
 たとえば医療保護入院とか措置入院なんかもそうですけれども、精神科医のさじ加減一つ、要するに好き嫌いだけですぐ入院をさせてしまうことができます。精神病院に入院した人はみんな言いますけど、刑務所より酷いと。
 児童をさらって児童養護施設に入れて、薬を投与して、親に会わせない……やっていることは精神医学とまったく共通していると感じますし、だからこそ一緒に告発していきたいなというふうに改めて思った次第です。

★子どもの人権を考える

南出 僕は左翼じゃないから子どもの人権自体にこだわりはまったくない。むしろ、否定的見解をもっています。そういうことを過度に強調するのではなく、「道義」とか「通義」のほうを重視しています。
 権利という言葉は、「権」は「力」を意味し、「利」は利益を意味する。本当は、西周と福沢諭吉とが論争したように権利(英文では何?)の訳においては、たとえば「通義」、義に通ずるという観点のほうが正しい気がするんです。また、日本人のイメージとして、「道理が立たない」という言い方をしますが、この「道理」です。
 人権というと、人の数だけ人権があって、人権と人権が対立したときにどう調整するかという問題が出てきますが、人の数だけ人権と正義はあるけれども、道理は一つだといえます。つまりお互いに調整し、一致点を見いだすプロセスが「道理」だと。
 そういう観点からいくと、これは一方に松島さんの親権があるわけね。【親権と人権との関係性とは?】親権はいみじくも義務を伴うというふうに解釈されてます。普通、権利とは義務を伴うものだとだれもが理解します。だから権利の原点は親権にあるような気がします。
内海 今の日本に一番欠けているものではないでしょうか。
南出 日本に一番、欠けています。義務を伴う権利なんだということを一番知らしめているのは親権だと思います。
 その親権というものを基軸にして考えたとき、親に不備があって、自分だけで賄いきれなかったら、たとえば隣三軒両隣が支えてくれる、あるいは社会が支えてくれるという公助、扶助の考え方があった。そしてそれも無理ならば、国家が支えてくれる。そういうふうなフラクタル(相似)な構造になっていると思うんですよ。もしこの親権になんらかの落ち度があれば、法律的にはなんらかの一時制限とか、それが家庭再統合する場合の暫定的措置を行政が取れる。これは本当に道理に適った話です。
 ところが今の児相の問題は、常に対立構造によります。だから権利の概念でいくと必ず対立構造になってしまうんですよ。親の側は「私のところに親権がある」。それに対して、児相は「こちらには児福法とか児虐法に基づいて取得している権限がある」という。権利と権利の対立にしてしまっているのが、権利意識の一番大きな問題点。
 そうであれば、一時保護なんだから、子どもを速やかに平穏な家庭に戻してあげる、あるいは家庭を平穏化して戻してあげるという措置を取ることが本来の児童相談所の務めです。にもかかわらず、隔離する、親と対決する、対立するという対立構造にもっていっているところに今の一番大きな行政の問題がある。
 児童相談所の職員は、児童を拉致された被害者側の親に対して不信感を持っています。「お前が悪い、お前が虐待した。お前が考え方を直さなきゃダメなんだ」と。それに対する親側の「いや、私には私の教育方針がある」という言い分をすり合わせようとしないわけ。そこに突出した権利意識がある。
 親は子どもに帰ってきてほしいという一心で、親の権利をなげうってでも、児相のムチャクチャな言い分を聞き入れてでも、という受け入れ体制があるんだけど、児相にはそれがない。児相の理屈を全面的に飲まない限り子どもは帰さない。それは家庭再統合、家族再統合を完全に否定する考え方です。

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