★どこからが児童虐待なのか?
次にこの法律でもっとも重要になってくる第二条「児童虐待の定義」についてみてみる。
「児童虐待の防止等に関する法律」第二条に児童虐待が定義されている。
(児童虐待の定義)
第二条 この法律において、「児童虐待」とは、保護者(親権を行う者、未成年後見人その他の者で、児童を現に監護するものをいう。以下同じ。)がその監護する児童(十八歳に満たない者をいう。以下同じ。)について行う次に掲げる行為をいう。
一 児童の身体に外傷が生じ、又は生じるおそれのある暴行を加えること。
二 児童にわいせつな行為をすること又は児童をしてわいせつな行為をさせること。
三 児童の心身の正常な発達を妨げるような著しい減食又は長時間の放置、保護者以外の同居人による前二号又は次号に掲げる行為と同様の行為の放置その他の保護者としての監護を著しく怠ること。
四 児童に対する著しい暴言又は著しく拒絶的な対応、児童が同居する家庭における配偶者に対する暴力(配偶者(婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にある者を含む。)の身体に対する不法な攻撃であって生命又は身体に危害を及ぼすもの及びこれに準ずる心身に有害な影響を及ぼす言動をいう。)その他の児童に著しい心理的外傷を与える言動を行うこと。
(児童に対する虐待の禁止)
第三条 何人も、児童に対し、虐待をしてはならない。
この「虐待」の定義を読んで、どう考えるだろうか?
大半の人は至極まっとうであるとか妥当であると思うに違いない。
しかしそこにこそ罠が潜んでいることに気づかねばならない。なぜなら、これらは著しく抽象的であり主観的であり、それがゆえに、いくらでも都合よく解釈可能であるからだ。この児童虐待の定義は、見方によって、躾とされる親の行為が虐待に該当することになってしまうのだ。
一例として「一 児童の身体に外傷が生じ、又は生じるおそれのある暴行を加えること」という文言を検討してみよう。
子どもへの暴行が限度を超えれば生死にかかわる重要な問題であることは間違いないし、そのことを問題視するのも大事なことではある。
しかしこれが体罰であったとしたらどうだろうか。この世には、体罰など不要で有害であると唱える人もいれば、躾のためには必要であると考える人もいる。この議論自体はもう少し追求し、判断も大きく分かれるテーマである。にもかかわらず、この虐待防止法の定義によれば、体罰はすべて虐待であると認定されることになる。なぜなら、その「暴行」の目的も理由もここには定義がされていないからだ。このようなものを本来、定義とは呼ばない。法律で規定し、結果的に親子の離散までありうる法律の根幹となる「定義」が、このように曖昧なのは、あまりに危険すぎる。
たとえば子どもを本当に愛している親がいたとしよう。その人は体罰容認者であった。自分の子どもがほかの子をいじめているのを見つけた親は、その子を呼びつけ、理由を問いただしたあとで、自分の信条に基づいて体罰として子どもにビンタをした。もし、この体罰で子どもがケガをしてしまえば、これは虐待として認定される。愛の深さは客観性がなく測りようのない曖昧なものだが、本来の虐待とは大人側の欲望や利己的都合によるものであることは忘れてはならない。
もし、この国が民主主義や基本的人権を尊重すると本気で唱えるのであれば、思想の自由を重んじるとともに、冤罪の可能性を考慮し、どこまでが体罰で許容される範囲であって、どこから先が虐待として認定されうるのか、それを判定する基準を児童相談所だけでなく、オープンに議論される場所に持ちだすことは必要不可欠なのだ。
「二 児童にわいせつな行為をすること又は児童をしてわいせつな行為をさせること」についても同じである。親が嫌いな子どもにしてみれば、どこの親でもやっているお風呂に一緒に入ること、体を洗ってもらうことも性的虐待になろう。このようなものもまた定義とは言わない。繰り返しになるが、「定義」とするなら、それを独断で決められる余地、恣意的に運用される余地は排除されなければならない。
「三」はいわゆるネグレクトを指すが、同様にもっと詳しく定義されていなければ、躾のために相手にされていなかったり、子どもがぐずったりねだっている時に相手にしないこともすべて含まれてしまうことになる。
「四」は精神医学や心理学などにも通じる問題であるから、さらに客観性がなくなる。子どものメンタル的な強さ弱さも考慮されないし、子どもに脅迫的なことを言ったり傷つけるようなことを言うのがすべて虐待なら、これまたほとんどの親が虐待として認定されうる話になろう。兄弟を差別的に扱うなどもこの定義の範疇に入るとされているが、兄弟をまったく同じに扱った親など、私はこれまでただの一人もお目にかかったことがない。
これが虐待だとする明確な根拠を教えてほしい。この世界のどこにそんな根拠があるのだろうか? そんなものはどこにもなく、だれかが勝手にその根拠を決めただけのものだ。
つまり、「虐待」の定義があいまいすぎて、どのようにでも解釈できてしまうことが、児童相談所に強力な〝武器〟を与えることになっている。児童相談所が「虐待である」とすれば、それらはすべて虐待に認定されてしまうのだ。
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