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体罰と虐待

体罰と虐待
皆さんは体罰についていかがお考えでしょうか?これは私と違う意見の方のほうが間違いなく多いでしょう。にもかかわらずなぜこの話題を取り上げるかというと、これが理解できて正邪どちらであれしっかり説明できない人が、ここで時々取り上げている児童相談所の問題を理解することが不可能だからです。

結論から言いますと私は体罰容認派になります。しかしそれでも容認派の中ではかなり体罰をしない部類になるでしょう。世の中には体罰否認派が多いことはもちろん知ってますし、体罰ガンガン派も結構いるでしょう。スポーツ系の人はある意味ほとんどがガンガン派だといえなくもないでしょう。

なぜ体罰についてどちらであっても語れ、理解できないとダメかというと、体罰と虐待に違いをどう説明するか、ということに関して議論ができないからです。これを例えば命の危険があるから虐待などというのは、まともなことを言っているようでずれています。それを認めているわけではなく、言語問題、定義問題としてずれているということです。

これは教師の体罰、昔でいう下町親爺の体罰についても実は同じことが言えます。いじめと体罰の違いという点でも似たような議論が成立するでしょう。皆さんはそのすべてに明確に答えることができるでしょうか?これは実は個人意見が入る問題ではありません。容認か非認かは個人意見ですが、定義問題には本来個人意見の問題ではないのです。これは例えるなら法律とは何か、憲法とは何か、教育とは何かというようなことを、定義することと似ているのです。

この話題はもともと科学論でもないし統計論でもないので正解はありません。愛ですべてが済めばそれが理想論である事も間違いはないでしょう。例えば私も昔ひどいいたずらをして親に叩かれたことはあります。しかしそれを怨んだことはなく、その時考えても今考えても自分が悪いことがちゃんと認識できるからです。またそのいたずらは言葉では注意されていましたが、子供だからでしょうか守らなかったことも事実です。そしてそれとは裏腹に親が叩いたものの中で今でもムカつくというのは当然あります。それはその時考えても今考えても道理や正当性を感じないからかもしれません。

この体罰の問題は反対にもつながります。この反対を端的に言えば過保護でしょう。そしてこの過保護は虐待されていたりそうであると思っている人が、反面教師としておこないやすい行為です。愛と表現するといかにもいいように聞こえますが、それは依存や過保護をすぐ生み出す母体であるとも言え、その愛の形がいかなるものであるかということはこれまたそれぞれのとらえ方によって異なってきます。例えばキリスト的にすべてを許せみたいにしたと仮定すれば、ある子供はキリストなみに優しい青年になるかもしれませんが、ある子供はどうしようもないわがまま青年に育つことになるでしょう。

この話題の本質は容認か非認に正解を出すことではありません。例え容認的な意見としてきちんと節度をわきまえているといっても、子供が全部自分が正しいと思えばそれは暴力かもしれません。その逆もまたしかりです。それよりもこの話題の本質はいつも書いている児童相談所問題であり、例えば小学一年生の子で万引きした子供がいるとしてほっぺたをたたいたとします。小さいあざもできたと仮定しましょう。それを体罰か否か虐待か否かは議論したい人が議論してください。問題はここで児童相談所は子供を速攻拉致ります。議論は成立せずに虐待認定され児童養護施設に放り込むということです。そしてさらに問題はこの子にこの先会うことはできません。面会請求なんて無駄です、一切会うことはできません。子供側が会いたいとか言っても無駄です。子供側が反省していても無駄です。裁判しても誰に訴えても無駄です。そして最終的にこの子には精神薬が投与されることになります。最終的にこのような子供が社会に出にくいことはデータでも示されています。

つまり体罰が虐待か否かは置いといて、それを虐待だと思っている人、それを通報する人はなにも知らないまま、体罰ごときとは比較しようもない虐待を児童相談所と協調して行っているということです。それに言い訳や正当化は通用しません。「知らなかったから」という言い訳は、精神医学の本性を知らなかったと言い訳して精神薬を投与した親たちと同じです。さて、あなた方は大丈夫でしょうか?
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